(2011年6月、震災後に初めて東北に行った日の、mixiの日記です
あの日は、一枚も写真を撮れませんでした。文章ばかりで恐縮です)
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「ありゃあ、地獄だね」
穏やかな笑顔のおじさんと、
おしゃべり好きな明るいおばさんが語る、
この世の地獄の物語。
今日、福島県相馬市に向かって家を出たのは午前2時。
途中、原発による通行止めのせいで逆戻りもありながら、
朝8時に相馬市のボランティアセンターに到着した。
すでに受付前には行列ができており、
一時間後の受付開始のころには、
百名近くのボランティアが集まっていた。
俺を含む10名の男性のチームが担う仕事は、
市内の住宅の泥だし作業。
俺の車を含む三台に分乗して現場に向かう。
センターから車で十分ほどのところ。
センターの周りは、時折道路の陥没がみられるものの、
それほど大きな被害はみられない。
しかし、車で現場に近付くと、
道路に漁船が何隻も乗り上げている状態に。
そして現場近くの、道路を一本渡ったところで。
状況は一変する。
確かに、海に近いところは、一段低くなっているものの、
ここまで顕著に生死のラインが分かれるものなのか。
そこには、何もない。
ただ広い広い平野に、数える程の建物がみえるだけ。
残った建物も、一階はほとんどががらんどう。
おびただしい瓦礫と、横転する自動車。トラック。漁船の数々。
周りにかすかに立ち込める、油の匂い。
戦慄が、身を駆け巡る。
今回の依頼元は、漁師の方。
少し前までは避難所生活だったが、今は仮設住宅に。
自分の船はかろうじて残ったが、
船体に穴が空き、使い物にならないという。
「どうせ漁ができても、原発のせいで福島の魚は売れないから、
どっちがいいかはわかんないわ」
まわりよりはわずかに小高い丘に建っていたのも幸いしたか、
その二階建ての家は見事に原型を保っていた。
しかし一階部分は、身長を超えるほどの水が浸かったという。
畳や床板が全て外された家の一階。
しかし上をみると、利発そうな中学二年生の男の子の写真と、
作文コンクールの賞状が飾ってある。
「海の日作文コンクール入選」
家の上部と下部の状況の違いがあまりに痛々しい。
家の床下に、泥の層がびっしりと詰まっている。
もはやコンクリートのように固まって、4~5センチの層を成している。
それをスコップで崩し、台車に入れて運び出すのだ。
数時間も続けると、足が疲労で震えてくる。
お昼ご飯。持参したおにぎりを頬張っていると、
まわりでは鳶や鶯の鳴き声が響く。
今日はやや雲もあったが、穏やかないい天気。
「癒されるよね。癒されるのも自然なら、津波も自然なんだよね。」
あの時の状況を、いろいろと教えてくれるご夫妻。
家の近くの土手には、家が数軒流されてきたという。
「あの向こうに二階建ての家があって、
その家の二階の部分が流されてきたんだよ。
そこに家族四人が中にいたままで、それでもみんな助かったんだから」
「あそこの三階建てのお宅は、おばあちゃんが孫を背中に背負って
外の壁にへばりついて津波に耐えてたんだ。
おじいさんは必死に助けてたけど、流されちゃって。」
「一階がこんな状態だから、泥棒が来るんだよ。それが悔しくて」
とめどなく流れ出てくる、常軌を逸した物語。
「ここは見渡す限り、2、3百のお家があったんだよ。
それがこんな状態。どこの家でもみんなそんな話ばっかりだよ」
泥をかき出し、壁の石膏ボードを取り外す作業も終えて、
2時半までで作業は終了。
それまで努めて明るく振舞っていたおばちゃんが、
帰る時に、ちゃんと眠れてる?と声をかけられると、
急に、顔を曇らせた。
「やっぱりね。ここに来て、この状況見ちゃうとね」
3時にセンターを出て、七時間の帰路の末、
見慣れた横浜の街明かりを見た時に、
急に動悸が速くなるのを感じた。
この見慣れた風景、街明かりの一つ一つに
今日見た、聞いたような情景が頭の中で重なった時。
「ああ、これが地獄か」
その言葉の意味が、リアルを伴って迫って来たのだ。
運転中、息苦しくなるのを感じた。
九月のチャリティーコンサートに向け、
どのように臨むべきか。
その答えは、まだ見つからない。
その日までに、もう数回訪れることになるだろう。
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(2017年 追記)
それから相馬市災害対策本部様から、
毎年中間報告書をお送りいただいております。
ボランティアに参加した方全員にお送りされているそうです。
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