私は2011年以来毎年、Brass for Japanの前に東北の被災地に訪れるという活動を個人的に続けています。時間が取れるときはボランティアに参加し、なかなか時間が取れない時は日帰り旅行に。で、今年は後者。10月1日の日曜日に、岩手県・大槌町に始発終電、弾丸日帰り旅行に行ってきました。
岩手県大槌町。昨年に引き続き今回も演奏いたします「You’ll Never Walk Alone」の作曲者、フジイヒロキさんが継続的にサポートされています。その活動は「槌音プロジェクト」と銘打ち、大槌町に音楽ホールを建設することを目指しておられます。
岩手の海岸線に面したこの町も、震災と津波によって大きな被害を受けました。3800世帯あった集落が、一瞬にしてすべて流されてしまったのです。当時町役場でお仕事をしていた職員60名のうち40名もの方がお亡くなりになったことで、全国的にも大きく報道されました。震災当時、遊覧船が乗っかってしまった民宿の映像を覚えている方も多いと思います。あの現場があったのが、ここ大槌町でした。
東北新幹線、新花巻駅を下車してレンタカーで約2時間ほど。ちょうどお天気も晴れてきて、とても気持ちのいい気候になりました。朝5時に出発して着いたのが11時と、約6時間の行程。気軽とまではいえませんが、十分日帰りでも行ける範囲内。
お話をお伺いしたのは、語り部ガイドの赤崎さん。自治会長にして仮設住宅住民の代表、私の父と同世代とは思えない、とても活発な方です。
赤崎さんは震災当時、その悲劇のあった町役場のすぐ隣に家を建てて住んでおられました。高校生だったころにチリ地震による津波(なんと地球半周して津波が東北地方に到達した1960年の大地震)を経験されたそうで、その時の経験から地震と津波への対策の必要性を強く感じておられました。
町内会長となってからも年一度は必ず避難訓練を実施し、この年も3月8日に行ったばかりだったそうです。地震が収まった後、これは必ず津波が来ると予測、避難所に設定されていた集会場では危ないと判断し、近所に声を駆け回って元気な人は近くの山に移動するように指示、自分は体の弱い近所のお年寄りのところへ駆けつけて、なんとおんぶして山に連れて行ったんだそうです。
なんという迅速な判断、なんという行動力。
避難所となった体育館では突然始まった2800人での共同生活を統率し、仮設住宅に移った後でも役所や政府への要望の先頭に立ち、時に住民とも対立しながら地域と住民のために6年半走り続けている赤崎さん。その行動力には感服するばかりです。
赤崎さんの運転で、大槌町を回ります。一面に広がる真っ平らな地形。海沿いの地域は建物も少なく、それでも目新しい住宅がまばらに立っており、私が今まで回った被災地の姿と大きく変わらないように見えました。しかしお話を伺っていると、それは大きな間違いであることに気づきます。
そこはすでに、6年半前と同じ地面ではないのです。
震災以降、被災地では盛り土という作業が進められました。地域全体に土を盛り、標高をそのまま2mあげてしまうという、途方もなく巨大な土木作業。私がこれまで訪れた南三陸町や陸前高田市でもその作業は急ピッチで進められており、町中をひっきりなしにダンプカーが走り回っている状態でした。大槌町ではすでにその作業は完了し、今年の9月から2mかさ上げされた土地で、新しい住宅地の開発が進められていたのです。
それはある面から言えば確かに、復興の確かな歩みであるといえるでしょう。しかし、先祖代々が営みを続けてきた土地を、たった6年で2m下の地層に沈めてしまったということの意味を考えると、なんともいえない気分になります。
赤崎さんも先月念願の新築を建てたばかりで、仮設住宅からの引っ越し作業の真っ最中とのこと。その新しい家のそばで、その土地に刻まれた歴史と営みに関する、一つのお話をお伺いしました。
新しい赤崎さんのご自宅のすぐ近く。その集落には江戸時代のころ、九州・太宰府天満宮で教えを請けた、ある高名な和尚様がいらっしゃいました。その和尚様は地域の文部教育に努められ、その教え子たちが始めた習字教室が今でも数多く地域に残っているというほど地域の文部に大きな影響を与えた方だったのです。
その集落には、きれいな湧き水をたたえた池がありました。その和尚様が死期を悟ったとき、その池のそばで入仏(生きたまま棺に入り、仏となること)したという記録が、池のそばに立つ石碑に残されています。
盛り土の計画を聞いたときに赤崎さんは、この池のことを真っ先に心配しました。盛り土をすると湧き水が止まることが多いといわれ、実際他の地域でも多くの泉が枯れてしまったそうです。
この池の周りに盛り土すると、池が枯れてしまうかもしれない。そんなことになったら赤崎さんは「この和尚様に怒られる」と思いました。
本人いわく、「会ったこともないこの和尚様に」。
赤崎さんは住民を説得して池を守るための町内会を作り、行政とも激しく交渉しました。その結果この池の周りだけ盛り土を逃れ、くぼ地のように池を残して公園として整備することになりました。
どんな土地にも、そこに住んできて生活を送ってきた人々の歴史があり、それが地形や道、川や水路、建物や石碑など様々な形で土地に刻まれています。それはまさに、土地に刻まれた記憶。盛り土することによって、それらの記憶がすべて土の中に埋まってしまうということは、果たして正しいことなのか。それはまさしく、考古学の発掘作業の逆回し。たった6年半前の土地が、すでに“歴史”になってしまったということでもあります。
そして、私たちの住む地域にも、その土地特有の歴史があり、人々がその地で暮らし続けてきた営みがあります。それらを日ごろ私たちは、どれだけ意識しているでしょうか。そしてどれだけ、知っているでしょうか。
これまでも何度となく津波に襲われてきた南三陸には、「昔はここまで津波が来た」「地震が起きたらここまで逃げろ」という、地形と歴史に基づいた教えが受け継がれています。地域のコミュニティが希薄化している昨今ですが、そういった「土地に刻まれた記憶」というのは、ひょっとしたら私たちが災害に直面した時に、生きるすべを指し示してくれる道しるべとなってくれるかもしれません。
ちなみに赤崎さん、語り部ガイドの仕事を通じてお知り合いになった九州の大学教授の方を通じて、なんと福岡の太宰部天満宮、その本宮に招待され、このお話をご講演されたんだそうです。遥か昔、太宰府天満宮からの教えを請けた和尚様の意志が、世紀を巡って再び本宮に帰る。太宰部天満宮を代々守りつづける禰宜さんからも絶賛されたとのこと。
まさに縁は異なもの、味なもの。
赤崎さんは言います。「地震が起こったら、まずは自分の身を守ること。自分の身を守ってから、他の人を守る。自分の身も守れなければ、他の人が自分のために危険にさらされることになるのだから」
南三陸には、震災を機に広く知られるようになった「てんでんこ」という言葉があります。地震が起こったらてんでばらばらになっても、自分で自分の身を守ること。これもこの地域に再びよみがえった「土地に刻まれた記憶」なのでしょう。
長くなってしまいましたが、これでも2時間のガイドの間に聞いたお話のほんの一部。いつも感じることですが、ここに住む一人一人すべてに、そういった途方もない物語があるということなのです。
震災から6年半。ずいぶん長い月日が流れてしまいました。それでもいまだ、街はいろんな課題や悩みを抱え、一歩でも進んだといえるのか。まさにYou’ll Never Walk Aloneでも表現されている混沌の深さがここにあります。
間違いなく言えるのは、被災地の姿は刻一刻と変化し、今の姿で居続けることは決してないということ。皆さんももし機会がありましたら、ぜひ東北を訪れ、そこに住む人々のお話を聞いてみてはいかがでしょうか。きっとテレビやネットでは伝わらない、今だからこそ残る「土地に刻まれた記憶」を感じることができるのではないかと思います。
そうそう。忘れてました。実は大槌町にはあの「ひょっこりひょうたん島」のモデルといわれる島がありまして、お昼の12時には町内放送でそのテーマ曲が流されるんです。その歌を聞いてて、ひとり妙に感動してしまった歌詞を最後にご紹介して、このレポートを終わりたいと思います。
苦しいこともあるだろさ
悲しいこともあるだろさ
だけどぼくらはくじけない
泣くのはいやだ、笑っちゃお
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